2026年9月5日
まともな人になろう。
Cobe Associe は、戦略と技術の問いを現場で検証可能な仮説に変える。
ニュースを見なくなって数ヶ月が経つ。
毎朝読んでいた新聞を解約し、スマホに入っていたメディアアプリもすべて消した。The Economistだけは購読を続けているけれど、速報記事はほとんど読まない。少し時間が経ってから出てくる分析記事を、翻訳アプリの助けを借りながら読むくらいである。おかげさまで、精神衛生がだいぶ改善した。
世界に流通しているニュースの多くは、私たちの負の感情を刺激する方向に最適化されている。別にメディア企業が邪悪だからではない。お金を稼ぐ道具としてニュースを扱うなら、それが合理的だからだ。
人間は、良い知らせより悪い知らせに注意を奪われる。記事タイトルにネガティブな単語を一語加えるとクリック率は約2.3%上がり、ポジティブな単語を加えると逆に約1%下がる、という大規模研究がある。テレビでも、犯罪や事故、災害などの映像が流れているときほどチャンネルを変えられにくいことが知られている。
怒り、悲しみ、恐怖、妬み。人間はそういう感情によく反応する。だから、広告で食べるメディアがそこを突くのは当然なのである。結果として、ニュースには「まともではないこと」ばかりが集まり、垂れ流されるのだ。
地球の裏側に攻め入ったり他国の石油資源を無断でパクる大統領(彼はしばしば”BREAKING NEWS”とSNSに投稿する)、国債長期利回りが危機を告げるなか突然SNSにガソリン補助金をぶち上げイミフ放漫財政を推し進める首相、疑惑解明をすすめようとした議員を党議拘束違反として会員資格停止にする与党県議団、選挙のためにくっついたのに効果なく簡単に諦める雰囲気野党。政界はニュース素材の宝庫だ。
ビスマルクは「政治は精密科学ではない」と言った。果たして現代、誰が政治に理性など期待しようか。政治家とはまともでない人であり、政治とはその人たちによって行われるまともではない何かであって、市民は少しでもましな結果になることをただ祈るしかない。ついそんな気持ちになる。
しかしそもそも「まともである」とはどういうことだろう。言い換えられそうな言葉を探したり、辞書を引いたり、生成AIくんと話したりした結果、私は今のところ、「まともさ」とはおおむね次の4つでできているのではないかと考えている。
第一に、現実認識。自分に都合の悪い事実も、事実として扱えること。願望と現実を混同せず、「私は正しいはずだ」よりも「実際にはどうなっているか」を優先できること。
第二に、相互性。自分と他人に、だいたい同じルールを適用すること。「自分が失敗したのは事情があったから。他人が失敗したのは怠慢だから」という、誰もが持つ便利な二重基準を少しでも管理する。味方と敵、現在の自分と未来の他人についても、「立場を入れ替えても同じ理屈を言うだろうか」と考えられること。
第三に、責任感。自分が決めたことと、その結果の因果を引き受けること。結果が悪かったときだけ環境や他人のせいにしない。一方で、自分ではどうしようもなかったことまで背負い込まない。責任とは、何でも自分のせいにすることではなく、自分が制御した範囲を正確に見積もることでもある。
第四に、可謬性。自分が間違っている可能性を残しておくこと。自分の主張に反証可能性を残し、「もしかすると自分が間違っているかもしれない」という事実を、嫌々ではなく引き受けること。
現実認識 × 相互性 × 責任感 × 可謬性。まともさとは、おおよそこのようなものではないか。
面白いことに、ほとんどの人は自分のことをまともだと思っている。「世の中、まともじゃない人ばっかりだよね」と言う人の頭の中では、なぜか自分だけが例外になっている。
心理学には「バイアスの盲点(bias blind spot)」という言葉がある。人間は他人の偏りにはよく気づくのに、自分自身の偏りには気づきにくい。ニュースをみながら「人の振り見て我が振り直せ」と思う人はいないだろう。政治家の失言、会社経営者の不祥事、陰謀論者の珍説、SNSで流れてくる愚かな主張。どれも、他人事として人は眺める。
それらを見つけて批判すると、少し気持ちがいい。「ああ、自分はこいつよりまともだ」と確認できるからだ。専門家でもないのに、毎日のようにSNSで政治や国際情勢を批評している人のことを考えてみる。社会を本気で変えるために書いている人は、ごく少数だろう。そして書かれるコメントの大半は批判である。
なぜ人は、あれほど他人の間違いを指摘したがるのか。それは、批判という行為が、自分のまともさを最も安く確認できる方法だからだ。
しかし、まともさとは他人との比較で得られる資格ではない。「あいつは愚かだ」と何万回叫ぼうとも、自らが賢くなるわけではない。政治家の矛盾を見抜いても、自分の矛盾が減るわけではない。陰謀論者を笑っても、自分の思い込みが消えるわけではない。
まともさは表現するものではなく、日々鍛えるものである。現実をちゃんと見る。他人と自分に同じ物差しを当てる。自分が引き受けるべき結果を引き受ける。そして自分が間違っている可能性を残す。どれも放っておけば、自然と弱っていく能力だ。
人間は生まれつきそれほどまともにはできていない。自分に都合よく世界を見て、自分には甘く他人には厳しく、失敗は環境のせいにして、自分が正しいと思いたがる。旧約聖書も、キリスト教も、仏教も、表現は違えど、だいたい同じように人間の愚かさを語ってきたのは、過去数千年、世界中で人類が他人の「まともでなさ」を目にし続けてきたからである。
「まとも」という言葉はもともと「真艫」と書く。船の真後ろを指す言葉だ。真後ろから吹く風は、帆にまっすぐ当たり、船を前へ進ませる。それが転じて、「正面から」「まっすぐに」、そして現在の「まとも」という意味になった。
わたしたちは風向きを選べない。政治家が何をするかも、経済がどうなるかも、他人がまともかどうかも選べない。他人は一切コントロールできない。
私たちにできるのは、吹いてきた風をなるべく正確に見て、舵を取り、帆を整えることくらいである。世の中の「まともではなさ」を数えて怒るより、変えられるものに集中し、自らが他人に吹き付けている風に自覚的であることが、「まともさ」への唯一の道なのだ。
お便りをお待ちしています。
