2026年9月12日
怠惰で強欲なわたしたちの資本主義
Cobe Associe は、戦略と技術の問いを現場で検証可能な仮説に変える。
神戸の山道を運転していると、リアル誘導員が立つ工事現場を通ることがままある。どんなに暑くても長袖長ズボンを着こみ、たんたんと赤い誘導灯を振るお仕事だ。新名神のような高速、新神戸トンネルのような交通量の多い有料道路ではほぼ見かけない。そのような場所の誘導は人形型ロボットに任されている。i光太郎くんなどがその代表例である。
バルーン型で1台60万円ほどらしい。マネキン型の安全太郎は80-100万円ほど。1970年から現場に立っている先輩である。
しかし先週、強い雨が降るなか下道を走っていると、小さな工事現場の前で、警備服で着ぶくれた、ヨボヨボの、推定80代後半のおじいちゃんが誘導灯を振っている。雨の勢いに負けそうなくらいに背中を折りながら、右腕を弱々しく左右に動かしている。車が近づいてきているかどうかに気を配る余裕はなさそうだ。60万円で代替しうるこの仕事で、おじいちゃんはいくら稼ぐことが出来るのだろうか。
現場を見て、これはあかん、何かがおかしいと感じるのが人情である。そんな年齢になってまでお金を稼がなくてはいけない社会がおかしい!年金制度!雨の日にまで高齢者を働かせる会社が異常!肺炎になって入院することで医療コストが増大!働きたい高齢者には状況に応じた仕事を政府が準備すべき!など、イデオロギーに応じていろんな人が好き勝手言えるシーンである。
私は、人間を守るために、更には人権や民主主義を守るために、広義のテクノロジーを発展させ続けなくてはいけない、と考えている。なぜなら、テクノロジーだけが、人間の心の奥にある「奴隷を求める心」の受け皿としての存在を引き受けてくれるからだ。
人間は本性として怠惰な生き物である。もちろん私もだ。自分がやるべきことを、できれば人にやってもらいたいといつも思っている。作業も認知も思考も、あらゆることについて。これは意志の弱さではなく、生き物としての仕様だ。省エネは根源的欲求であり、放っておくと太ってしまうのはこの仕様のためである。
そして、人間の欲求には際限がない。私はマズローの五段階欲求説を信じてはいないけれど人間は「自らが欲求不満になるように」身勝手な欲求を(無意識に)生み出し続ける存在であって、それは概ねマズローが言うように「客観的にみると不要とされる方向に拡張されていく」のだと思う。
怠惰で強欲。経営コンサルタントとして、あるいはひとりの人間として、いろんな組織のいろんな人に会ってきたけれど、強く確信を持って言える。人間は本来、怠惰で強欲な存在だと。いっとき勤勉な人がいる。いっとき清廉で無欲な人もいる。しかしその人たちも性根では怠惰で強欲であり、かつその勤勉さや清廉さもあくまで相対的なものである。人間の本性は善である、といったルソーを信じるのもいいけれど、彼の信奉者であるロベスピエールは断頭台に上がる独裁者になった。実感を伴わない信念に身を捧げてはいけない。
怠惰で強欲。これは集団としての人間を捉えたときの、頑健かつ客観的事実だ。古くは宗教が、フランス革命から共産主義に至るまでの近現代では学問や理性に基づく啓発が、これらを諫めようといろんな試みをしてきたけれど、尽く失敗してきた。GLP-1や遺伝子編集、脳への電磁気刺激など、技術でこれらにアクセスする試みもあるけれど、社会全体にこれが敷衍するまでに(そもそも敷衍させたい人がどれだけいるのかはわからないけれど)はまだ相当の時間がかかるだろう。
この二つが変えられないとすると、欲求の解消は常に非対称なものとなる。欲求を持つのは自分だけど、それを能動的に解消するのは自分ではない。誰かに受け皿になってもらわないといけない。誰かか、あるいは何かが、頼みごとを引き受け続けなければならない。赤い棒を振るのは常に、自分ではない誰かである。
歴史を見て、その受け皿を担ってきたのは誰だったのか。奴隷とされる人たちである。
ストア派を始めとするご立派な啓蒙思想を生み出したギリシア都市は、住民の2〜3割が奴隷だったと推定され、広大な植民都市を外部に抱えていた。アテナイの市民が広場で正義について議論できたのは、家を守ることを奴隷に委託し、農業・工業の負担を植民都市に住む人たちに押しつけたからである。アリストテレスはその著書『政治学』の中で、自然本性によって奴隷である人間がおり、かつ彼らにとっては奴隷であることが有益でありかつ正しいのだと述べている1。
奴隷という名称が公に使われることが減った19世紀以降においても、この闘争は続いている。人間集団を階層化し、自分たちよりも下の集団に面倒を押しつけようとする取り組みはあらゆるところで続いている。性別、民族、家柄、出身地、収入、あらゆる基準で行われる階層の選別は、自らの「面倒事外注」を正当化する論理に使われている。
ギリシア都市が滅んでから2千年後、非暴力で英帝国と向き合ったマハトマ・ガンディーのことを考えてみよう。彼は南アフリカで活動していたとき、「黒人と同等に扱われること」を屈辱と公言している。自身が収監された際、黒人囚人を 「uncivilized(未開)」「very dirty(不潔)」「live almost like animals(ほとんど動物のように暮らす)」であると獄中記にわざわざ記し、ムンバイでの演説では、黒人は「狩猟をし、牛を集めて妻を買い、怠惰と裸で人生を送る」集団でありインド人を彼らと同じ水準で捉えて良いはずがないのだ、と語った。解放を説いた人が、自分の下にもう一段の受け皿を同時に要求していたという事実。弁護士にして聖人と崇められた彼でさえこの様である。これはガンディーの人格の欠陥というより、人間みな、外集団を「非人間」化し、彼らに面倒事を押しつけようとする衝動がどれだけ強いかの証拠である。
人はみな、歴史上ずっと、怠惰と強欲に基づく外部委託の衝動を、相手を「人間」の枠から外すことで処理してきた。人権の境界線は、受け皿の境界線と一致している。誰が人間か、あるいは仲間かという問いは、誰になら面倒事を押しつけられるかという問いの裏返しだった。
どこまでも進む非人間化を止めたのは、技術である。
蒸気機関が石炭を食べて動き始め、石油や原子力が続いた。歴史家のジャン=フランソワ・ムオは、奴隷と化石燃料で動く機械が社会の中で同じ役割を担ってきたと書いている。持ち主を日々の労働から解放し、その代わりに、持ち主が働き手の実体を見ずに済むようにする役割である。産業革命以前、その働き手はつねにどこかの人間だった。エネルギー革命を徐々に進めることで、仕事の多くを担ってきたのは機械である。奴隷を解放したのが誰か?という問いの答えは、試験であればエイブラハム・リンカーンなのだろうけど、私の心情からすると、それはジョン・ケイであり、リチャード・アークライトであり、ジェームズ・ワットであり、マイケル・ファラデーやヴェルナー・フォン・ジーメンスである。
その技術の社会実装を進めてきたあらゆる社会制度は、私にとっての善である。大企業を生み出した特許制度・会計制度・会社法・雇用規制などの政府・行政制度、金融インフラや安定した市場などが存在したことで、機械が大規模に稼働し、奴隷労働を着実に減らし、同時に不遇な人間への分配を可能にするだけの剰余価値を生み出すに至った。人間の欲求が物質的なものを超え、FOMOや感情充足のような不可解なものになった後も、ネット空間に広がるデジタルサービスや大資本が提供するエンターテイメントによってなんとか充足をみている。
しかし先に述べたように、人間の欲望や怠惰さには限りがない。そしてそれらは矛盾していさえする。技術が前に進み続ける限り、機械がすべての受け皿を担ってくれるだろう。誘導員の機械が安くなれば、おじいちゃんは雨に立たずに済むように。人間が人間らしくいるために、技術は永続的に前進しなくてはいけない。そして技術進歩が欲求の膨張に追いつかなくなったとき、人権という概念は消え去るだろう。
綿繰り機の歴史が教えてくれることがある。
1793年、イーライ・ホイットニーが綿の実から種を取る手作業を圧倒的に効率化する機械を発明した。奴隷が解放された、と思いきや、実際に起きたのは逆。米国の奴隷人口は1790年の約70万人から1860年の約400万人に増加した。「効率的に採れるなら!」と需要が急増し、綿花の生産量は同期間で3千俵ほどから400万俵まで急拡大したのだ。種取りが速くなったので、その前工程、摘む手がいくらあっても足りなくなった。欲求の成長速度が技術の前進を追い越した一つの例である。
さらに、目の前の技術が使えなくなる兆候もある。エネルギーが安く際限なく湧く時代が終わりつつある。そして物理の世界のイノベーションが鈍り、技術の重心が物理から遠い場所、AIへ移っている。これまで私たちの欲求や怠惰さを引き受けてくれていた受け皿は、ある日粉々に砕け散ってしまうかもしれない。
社会制度も不安定だ。効率性を脇に置いていろんな人にメシを食わせる装置だった大企業が、金融市場のおもちゃになりつつある。資本効率性を絶対テーゼとして、株主への還元を強化し、働き手を減らす方向に舵が向いている。法人も「人」である限りにおいて、独自の欲求を持つ。本来は多様だった法人の向かい先も、「利益最大化と永続タテマエの堅持」というくだらないものに集約されつつある。同質集団が徒党を組み権力を持ち出すとろくなことがないことを歴史は教えてくれる。しかしこれも、法人という幻想を維持するためにしょうがない何かなのだ。
受け皿が減り、人々の欲求が拡大し続けるなら、起きることは一つしかない。いま人間と見なしている人たちを、人間の枠から少しだけ外すことである。アテナイからガンディーまで、人間が毎回やってきたことの繰り返しだ。機械から人へ。人の中でも、より人らしくない方へ。欲求を低い方へ流していくのが私たち人間のやることである。
私たちがやるべきことは、人間を受け皿にすることを許さない圧を社会として保ち続けることと、その圧を維持するために、受け皿たる機械を発展させ、それを支える技術に時間や金を注ぎ込み続けることだ。どちらかが終わったとき、私たちは中世に回帰せざるを得なくなる。
人権を守るための資本主義、という言い方をしたい。人権とは、怠惰と強欲の受け皿から人間を除外し続ける仕組みの名前だ。それを可能にするのは普遍的善意でも理性の進歩でもなく(そんなものが存在するなら世界はこんな姿をしていない)、継続的な技術進化と矛盾をはらんだ社会圧の両立である。当然のように、これは相当に不安定な代物だ。さらにいつか、というか近い未来、超知能によって機械が人間に牙をむくかもしれず、それへの対処も同時に考えなくてはいけない。私たちの日々は危うい。思ったよりもギリギリのところで守られている。この道を外れそうになったとき、従うべき誘導灯を振ってくれるのは誰だろうか。そもそも、誘導灯など存在しているのだろうか。
原文は“εἰσὶ φύσει τινὲς οἱ μὲν ἐλεύθεροι οἱ δὲ δοῦλοι“『政治学』第1巻、Bekker 番号 1254b–1255a。原文を解釈する際に、生成AIの助けを借りています。

